フルマラソンで走る土浦には忘れてはならない歴史がある。
「若鷲の歌」(予科練の歌)
作詞 西条八十
作詞 古関裕而
一,若い血潮の予科練の 七つボタンは桜にいかり
今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃ でかい希望の雲が湧く
二、燃える元気な予科練の 腕はくろがね心は火玉
さっと巣立てば荒波超えて ゆくぞ敵陣なぐり込み
三、仰ぐ先輩予科練の 手柄聞くたび血潮が疼く
ぐんと練れ練れ攻撃精神 大和魂にゃ敵はない
四、生命惜しまぬ予科練の 意気の翼は勝利の翼
見事轟沈した敵艦を 母へ写真で送りたい
予科練とは
予科練とは、海軍飛行予科練習生のことで、昭和5年に1期生として、高等小学校卒業程度の14歳から、16歳の少年が採用され、横須賀海軍航空隊で、教育が始められた。昭和12年から、「乙種飛行予科訓練生」と称される。
昭和12年教育期間短縮のため、中学4年1学期終了(14年から中学3年終了)程度の学力を有する志願者から採用する「甲種飛行予科訓練生」の制度が出来た。年齢は15歳以上20歳未満の者。
その教育は、犠牲的奉仕精神と敢闘精神をとことん鍛えあがるという方針のもとになされ、厳しいものであった。1週間に1日の休みは」あったが、絶え間ない訓練に明け暮れ、精神注入棒と言われる、樫の棒によって身体をなぐられる体罰が日常的に行われた。
昭和18年には、高等小学校を卒業した17歳以上の少年を、特乙種として募集し、6か月の短期訓練で、荒鷲として戦場に送り込んだ。予科練習生の採用は、土浦航空隊開隊当社は、300人であったが、500人となり、終わりには1500人と増加した。
予科練出身者は、真珠湾攻撃、ミッドウエイ海戦などで活躍したが、戦局悪化のなか特別攻撃隊が編成され、予科練卒業生の8割18,564人が散華した。
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