天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の河野息利に長男が生まれた。どうしたことかその子は何日経っても片手を固く握って開かない。そこで河野家の菩提寺である安養寺の僧が祈願をしたところ、どうしても開かなかったその手がようやく開くと、手の中から石が転がり落ち、拾い上げてみると『衛門三郎再来』と書いてあった。
河野息方と名づけられたその子は、15歳で家督を継ぎ、後に伊予国の領主となってからは、領民を慈しみ善政を施したとされている。その時の小石は安養寺に納められ「玉の石」と呼ばれ、寺宝として大切に保存されている。この寺が後に「石手寺」と名付られる第51番札所となった。
この石に書かれてあった衛門三郎は河野家一族の一人でお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望も無かった人物であった。
ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返した。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返したが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまった。以降僧侶は現れなくなった。
その後、三郎の家では不幸が続いた。
8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまった。
打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、その時、僧侶が弘法大師であったことに気がついた。
以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は全て人へ譲り渡し、妻とも別れて、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かける。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回った。
3回目の逆打ちのとき、12番札所焼山寺の近くでようやく弘法大師に再会することができましたが、衛門三郎は重い病で死の淵にいました。
涙ながらに懺悔すると弘法大師は衛門三郎を許し、『現世の悪行は消え失せた、来世の望みは叶うであろう』と言われた。衛門三郎は『できることならもう一度河野家に生まれたい』と望み、弘法大師が「衛門三郎再来」と書いた石を左手に握らせると息を引き取った。
衛門三郎の八人の子供が毎年一人ずつ亡くなるのもあり得ない話しであるが、それにより悔い改めては全ての財産を処分して、妻とも別れて弘法大師との邂逅を求めて四国遍路に出かける部分である。何故に彼はそのような行動をせざるを得なかったのか?その行動は簡単では無く、誰にも出来る行動と到底思えない。そこに秘められたところの弘法大師との衛門三郎の尋常ならざる縁を感じる。
それは単に托鉢に来た弘法大師の鉢を叩き落として八つに割ったというだけの関係では無い深い関係が感ぜられるのである。また弘法大師は何故に八度も托鉢に訪れたのか?其処にもこの物語の謎を解く鍵がある様に思える。
衛門三郎再来の石は更に信じられない物語かもしれないが、これを信じる事の出来る人には福があると私は信じる。
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