従順でない人に対して神様は次の様に言われている。
「わが子よ、主と王とを恐れよ、 そのいずれにも不従順であってはならない。
https://www.bible.com/1820/pro.24.21.口語訳」
箴言 24:21 口語訳
この世では反抗する事が美徳のように語られる事も多い。しかし、聖書には反逆した事による多くの悲劇も書かれている。
自分とは一体如何なる存在か?自分が世界の中心という認識も確かに真実なのだ。主人である自分を認識する事が出来ないとすれば神様を認識していないとも言える。しかし、悩める自分に対して従順さを求められるのはどうかと思うかもしれない。
あなたは従順という言葉が好きですか?服従という言葉が好きですか?問題はあなたが誰に対して従順であり、誰に服従しているか?それが問題と言える。
自分の中には実に思い上がった気持ちがあり、それを抑える事が出来ない。他の人間が馬鹿に思えて仕方がない。本当に相手を辟易させるような傲慢さが存在している。
そのような自分に必要な生き方とは何だろうか?そこに従順という事の大切さが出て来る。
人間は本当に傲慢なのだ。自分が考えている以上に傲慢なのだ。その傲慢さは遂に天に達して、自分は一人で生きている。一人で生きられると考えるようになる。そして、その愚かさに気がつかない。悲しい事に何十億年かかっても気がつかないのだ。そして、何度も同じ過ちを繰り返して来たのだ。
その結果として時に自分には何の価値も意味も無いと考えて自らの命を絶ってしまう場合もあるかもしれない。その本質は天にも届く人の傲慢さと思わないだろうか。生きる意味は傲慢の中には存在しない。これはサタン悪魔の本質である。信仰は正にこれとの戦いなのだ。
この従順さを自分の中に取り戻すには敬拝つまり神とキリストに対する形を行動を持って表現する必要がある。心で考えるだけでは何も変わらないのだ。自分の中の傲慢さは考えるだけでは何も変わらない。その実践が敬拝である。
敬拝はこのように行う。先ず、自分を現す左手を動かして胸の中央に移動して、感謝を現す。次に、その左手の上に神様や先祖を現す右手を移動し重ねる。
「あなたの神、主なるわたしは あなたの右の手をとってあなたに言う、 「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
https://bible.com/bible/1820/isa.41.13.口語訳」
イザヤ書 41:13 口語訳
そして、更にその重ねた両手の上に見えない善なる手が無数に重ねられているのを感じる。或いは自分の両手に神様の思いも含めて全ての存在の思いが集められているのを手に感じる。その重ねた手とその思いを尊く思い、自分の目頭より上に持ち上げる。尊く思う気持ちを両手で表現するのだ。これが先ず第一に行う事である。
その姿勢のままに、自分を低くするのである。自分を低く出来ない、、、それが傲慢なのだ。右足から腰を落として手を床につけて、その上に頭を落とし身体も腰も床に落として礼拝し、そうした尊く思う気持ちや神様に対する従順服従を表現する。これが第二である。
そして自ら立ち上がる時も、尊く思う思いのこもった両手を目頭より上に固定したまま立ち上がるようにするのだ。最後まで重ね合わされた心を尊く思う気持ちを手の位置を変えずに表現する。これが第三である。ここまでやって両手を下ろして敬拝は終わる。
これを一千回やれば自分の中の傲慢さも少しは小さくなるかも知れない。
敬拝という事を考えてみる時にふと見える光景がある。私の前で敬拝している人の姿である。どうして、その光景が心に焼き付いているのか?きっと自分がやらねばならない姿を見せられていたのではないかと今にしてみれば考える。そうなのだ敬拝は自分だけがしているのではない事がきっと心を静かにすれば見えて来るに違いないのだ。一人だけではない無数の人もきっと見えて来るのだ。
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